田中千恵子AG
私の生家はりんご農家でした。父親は地域でも色んな役に関わり、お人好しで、あまり疑うことをしない人だったので、家族は、結果2回【しくじり人生】の余波、いや大津波を受けました。
1回目は、私が小学入学前、農家から集めたリンゴを関西に移出しようと、会社を立ち上げ、最初うまくいって、軌道に乗った途端、今で言う詐欺集団、詐欺ブローカーに、金もリンゴも取られ、父は責任取って、田畑全部借金に取られ、家だけ残りました。それから両親は、リヤカーで魚の行商はじめ、のちに女性ではめずらしく母は車の免許を取得して、父と同様 車で、転んでも起きあがる!と言う(ダルマ)のマークを目印に移動販売をして借金を返しました。
少し余裕が出来、店舗と住居兼学生下宿を営み、高校卒業後は、家業をすると思っていたら、父が、またうまい話にのって知人の保証人になり、トンヅラして行方不明の人の借金を抱え、ヤミ金(といち)…10日で1割の利息で、夜中まで借金取りが訪ねてきて、応対する母の後姿を見て、怖いやら、情けないやらで、父を憎みましたが、両親が離婚して、父がいなくなれば、店を続けられると言われた時、弟と私は泣いて反対しました。
その後は、両親は兵庫県の工場へ、弟は高校生向けの下宿屋さんへお世話に、私は八戸のマグロ卸商していた叔父夫婦のもとへ、みんなバラバラになってしまいました。後で、母の日記を見た時に子どもへの想いや、不安等がいっぱい綴られていて、母は、それまで、がむしゃらに働いてきたので、兵庫に行き、町内の婦人会で踊りやカルチャー的な趣味などやり、社員旅行に行ったり、社宅の庭で好きな野菜作り等をして、ホントに自分の今までの苦労分を取り戻したかのように、活き活きしていました。
私は八戸で1年過ごし、弘前で、私を心配していた夫と結婚し、弘前大学生協に就職。2年後長女が誕生、年子で次女三女の双子の母になり、楽しい子育てと地域での活動にも積極的に参加。
仕事上良い本にも出会い、読み聞かせなどもグループで共に子育てする仲間が出来、保育園卒園と同時に、放課後の子どもの居場所が無いので学童保育(児童センター)施設作る運動をして、ようやく出来た頃には娘たちは、高学年になり、間に合いませんでしたが、放課後の子ども達が安心して過ごせる為にずっと関わっていきました。
両親も定年過ぎまで働き、弘前に帰ってきて、相変わらず地域活動など続けながら幸せに暮らしていましたが、母が進行性核上性麻痺という難病になり、入退院を繰り返し、寝たきりになった時、父の看病は頭が下がるほど献身的で、自分が苦労かけた分、返しきれないと尽くしていました。
老いた親の介護、世話もあり、私が51歳の時、50肩で、夜も寝れない痺れと痛みで、悩んでいた時、生協の同僚の原田さん(現インストラクター)にお試ししてもらい、1回で魔法にかけられたように楽になり、それがアミンとの出会いでした。
いっぱいやってあげたい人ばかり、大学病院の看護師さん達は、膝が痛くて大変そうな人がたくさんいたけど、店長に「田中さん生協の組合員さんには絶対教えちゃダメだよ、生協が、こんなネットワークやっていると思われるからと、釘をさされたので、児童センターのママさん達に教えたら、たくさんの仲間が出来ました。アミンと生協のダブルワーク。生協は月〜金曜、アミンは土日だけですが、年末調整の年収を見た時にビックリ!生協の年収より多い金額、その他にエステ代は別に頂いていましたので、生協を辞めようかなと思っても私が辞めれば、生協がつぶれるかもしれない!という変な自信があって、踏み切れなかったけど、ついに30年の生協生活に別れを告げアミン1本に。(…ちなみに生協はつぶれませんでした。)
死ぬまで生協で働くと言っていた私が生協を辞めたので、看護師さん達は、どうしたの?と聞いてきたそうで、生協を辞めたから、この人達にも教えてあげようと、お試しに誘い、その時、膝が悪くて病院辞めざるをえなかった人が、もっと早く教えてくれてたら、病院を辞めなくてよかったのに、と言われたので、それからは、いつでも、どこでも、誰にでも教える事にしました。
最初始めた時、いち早く教えた親友に、こういうのをやると友達無くすから、この美容機器分のお金を私あげるから、もうやめたほうがいいよと反対されたので、「いいよ買わなくても、私を見てて」といい切った後で、私を見て誰よりも理解し、今では私を応援してくれてるスーパー愛用者です。
娘達も最初は変なものに引っかかって!と止められましたが、家族で社長(現会長)フォーラムにて話を聞いてから、応援にまわり、父も社長の考えは、自分と同じ考えだ!と身を乗りだして聞いて、太鼓判をおしてくれました。
父は94歳まで現役で、毎日マットに寝て、朝リンゴ畑の作業から帰ると、ドームにスイッチ入れて、風呂で汚れを落とし、ドームに入って仮眠。目覚めるとルーガスをセットしてファラオのように、横たわり、私が朝の支度をおえ、背中と脚をかけるまで待っている毎日でした。
同じ90代とは比べものにならない筋肉がついて、階段もスムーズで、
私:「お父さん、毎日エステしてるじいちゃんは世界中探しても居ないよ」
父:「そうだな、まんず、あずましいじゃ(気持ち良い)!」
私:「そんなに良かったら宣伝してよ!」
父:「オラの知ってる人はみんな寝たきりか、あの世へ行ってる」
と笑っていましたが、その後、軽い脳梗塞で入院中はエステもできず、昼夜逆転で自宅では見れないと施設に入り、相変わらず昼寝て夜起きだす、毎日足も冷たいので、マットに寝せたいと願い、自己責任を約束して、寝せたその夜から足は、ぽかぽか、ほっぺは赤くて、起きることは無くなり、一緒に寝たいくらい気持よく寝てると、それから1年後に父は亡くなり、偶然会ったその時お世話をしてくれた所長さんが、あのマットって私でも買えるの?と言ってきました。
病院へ入院した時、口呼吸で中が乾いて出血しては乾き口の中がドス黒く壊れて、何とかしたいと手だてはしたのだが無し、もしかしてと、ヒアルロン酸のBHCを飲ませたいと願い、胃ろうに入れてもらったら1時間もしないうちに、口の中が湿ってきて、よだれができて乾きが収まった時は、担当の看護師さんと大喜びし、看護部長まで見にきて、その効果に驚き、毎日1本ずつ胃ろうで流してもらいました。
これ高いんでしょう?と聞かれて、1本700円それでも内容成分からいけば安すぎ、私は会員になればもっと安く半額位で飲めるからと会員になってるのよと。すると私も会員になりたい!との声。父は最後まで、アミンの種を蒔いて私との約束の宣伝しながら旅立って行きました。
アミンは人を育てる人を育てる会社!私は運だけで、それと皆さんのおかげで、ここまでやってこれました。万事休すという事もたくさんありましたが、運良くどこからか手助け頂いて、今日があります。
直上の原田インストラクターには、日本一のテキトー男、高田純次の女版だと、テキトーに事を運び、テキトーに切り抜けてと叱咤され、裏では直上が手を回してのサポートしてるのも知らずにホントにノーテンキでアミン生活をエンジョイしていました。
昨年同級生が年金だけで足りないからアミンビジネスしたいと栗の縁のビジネスメンバーが出来、エージェントにも昇格させて頂きました。エージェントになってみる景色は違うと良く言われてましたが、これほど手厚く指導してくれる会社はありません。宝物がたくさん埋まってる山を与えてもらったようで、どこを掘っても宝物に当たり、磨いていく技術をこれでもかーと教えてもらっています。
私を信じてついてきてくれた愛用だけを教えていたメンバーに、手に職頭に商いを語り、システムをしっかりお伝えし!タカラの山に種を蒔いていきます。セルフメディケーションで生涯現役目指し、私に関わる全ての人に美と健康と豊かさを共有してもらいます。皆さんに感謝です。
100歳目指して、ピンピンコロリ。