末 幸子販社
今年75歳。後期高齢者の仲間入りです。アミン歴20年。
福岡県遠賀郡芦屋町の海の近くで生を受けました。
父24歳、母22歳時に生まれた、戦後の平和の落し子です。
祖父、祖母、父、母、おじ、おば、兄、私、弟の家族。
父が網元(あみもと)をしていたので、家の2階には住み込みの男の人がいっぱいの大家族の中で育ちました。
いわし、さば、あじ、いか、たい、いりこも加工していました。東シナ海にフグ漁にも行っていました。
小学校、中学校、高校と一緒に通った幼なじみの主人と25歳で結婚、26歳で長男、27歳で次男に恵まれ、29歳の時に主人が脱サラをし、町の小さな電気屋さん「ソニーショップ・オレンジハウス」を開店。
主人と私は、店舗と家の借金を返す為、朝から晩まで一生懸命働きました。
営業、配達、取り付け、集金、重たい冷蔵庫やテレビの配達、屋根の上でのアンテナ取り付け、夏はエアコンの取り付け、ねじりハチマキで汗びっしょり、顔は前か後ろかわからないくらいまっ黒。まさに、男でした。
子どもはわんぱくでもいい、たくましく育って欲しいとの思いから、水泳、野球、剣道となんでも挑戦させました。
しかし、小学校高学年の時、長男の様子がちょっと気になり、すぐ病院へ連れて行き、色々検査していただき、最後に頭のMRIを撮ってそのまま九大病院へ、検査入院。
その結果、病名は「骨髄小脳変性症」と言われました。初めて聞く病名でした。なんで、どうして、こんな難病に、特定疾患で病因もわからず、治療法もない。
運動失調で平行感覚が悪く、歩くとすぐころぶ、ふらつく…。
段々と筋力が萎えていき、介助や介護が必要となり、やがて寝たきりとなっていく病気です。
そして2年後、さらに弟も同じ病気と分かり、「なんで?!神様って、この世にいないのか…。」
と思いました。
そんな中、岡田統括(当時の岡田MG)が話があると訪ねてきました。
岡田統括のご主人と私の主人が友達で、岡田統括(当時の岡田MG)は「今アミンという仕事をしている」といい、どんな会社なのか、生きがいや、やりがい、自分の想いを話して「一緒に仕事がしたい」と言われました。
「エーッ!!私がエステ!?人が笑うよ。紹介はいくらでもしてやる、私はいいのでアンタ頑張り~!」と、しっかり、きっちり、断ったはずなのに、岡田統括は1週間おきくらいに家に来て、しつこく誘い続けられました。
それは1年間も続きました。
また当時は、色々な売り込み(宗教から健康食品まで)が沢山きていて嫌気もさしていたし、それよりも仕事、子育て、家事などなど、いっぱいいっぱいの時でした。
それに、またその頃は家電量販店があっちこっちにできていて、小さな電気店は生き残るのに大変な時でした。
後で聞いた話ですが、当時の私は暗い顔をして昔の勢いがなかったそうです。
岡田統括からは、「分かった、仕事はせんでいいし、商品も使わんでもいい、でも会社を見てよ!
会長(当時は社長)の話を聞いてよ!私がどんな想いで、今の仕事をしているか、私が何を教えたいか、見て聞いて、自分の目で確かめて!何日のこの日に迎えに来るから!!」
と言って、カレンダーに大きな◯を付けて帰って行きました。
私はその日にアミンの会合に行って、会長の話を聞いたら終わると思って、参加した会長講演(当時は社長)でした。
一番前に座らされて始まりました。
いやいやで参加した会長講演でしたが、話に引きずり込まれました。
「天の配剤 己の力量以上のものを与えず」
「全ての出来事、必然必要」
胸にグッサリ刺さって涙が止まらなかったのを今も覚えています。
自分に乗り越えられない壁はないんだ。
何をしても、いつも子どもたちをこれから、どう育てていけばいいのか?常に頭のどこかに迷いや不安がありました。でも、ここから私は2人の子どもを育てていけると考えが変わりました。
もう一度会長の話が聞きたい!と思いメンバー登録をしました。
1度もお試しをしないまま(お試ししたら買ってあげないと…と思ったから)毎日、クルクルクルクルと『ルーガス』(当時の超音波機器)で顔をかけました。
鏡に向かって、色が白くなったと自分に言い聞かせ(笑)、1ヶ月後、いつもはジーパンとTシャ
ツというどうせ汚れるからと汚い服装でしたが、ちょっとだけ綺麗にして、スーパーに行って知り合いに声をかけると、「エー!!」っと、した顔で2度見するんです。
その時、「やったー!」と思いました。
それから、お試し会、セミナー、勉強会、色々なところにひっぱり回されました。
しかし、私は電気屋だったので、どうしても商品の説明をしてしまう。
「誰が、物売りせぇと言ったね!売るんじゃないよ、伝えるんよ!」と、直上の岡田統括とよくケンカもしました。岡田統括より私は10歳も年上です。
しかし、アミンでは先輩なので「くそー!」と思いながらも言われる通りにしました。
メンバーさん、岡田統括、会長はじめ、会社スタッフの皆さん、本当に皆のおかげで販社にさせていただきました。
ただ、「あんな状態の子どもがいるのに、夜遅くまで仕事するかね…」とか、陰口も耳にしました。「渡る世間は鬼ばかり」と感じたりもしました。
当時は、実の父からも「介護の必要な子どもを置いて、なんでそんな仕事をしなきゃいけんのか?
お金なら、私が・・・」と。
私は父に「私は子どもの為に生きるよ。でも今、子どもだけと向かい合うと、いっぱいいっぱいになってしまい、いらぬ思いもよぎる・・・。自分を取り戻す為に、これからも子ども達と生きていくために、自分の時間がいるんよ。分かって、お父さん。」
と伝えました。
自分の想いを伝えることで、あっち、こっちから応援の手が差し伸べられました。
販社挑戦中、子どもが肺炎で入院。
しかし、足を止めるわけにはいきません。
メンバー皆が頑張ってくれているアミンを、今は優先順位1番としてやりました。
そして、さあ、これからまた頑張ろうと思っていた矢先、今度は漏電から家が火事になり、自宅も店舗も全焼。
私は無我夢中で子供達を家から引きずり出し、その時に煙を吸って意識不明となり、顔~腕にかけて、重度の火傷。顔も火傷で真っ黒。
病院に運ばれ、ICUで1週間、その間、全国各地のアミンの皆から頑張れ!頑張れ!の見舞いや応援の電報が届きました。自分のことのように心配していただき本当にアミンの人は素晴らしく、沢山の勇気と元気をいただきました。
1ヶ月後、退院、まだ火傷の痕は完璧ではなかったですが、次の日から「ルーガス」をかけました。火傷で真っ黒の顔の肌も、再生し生まれ変わるかのように綺麗になり、会長からは「タダでピーリングした末幸子」と言われました。
皆さんに助けていただき、命は一つもとられませんでしたが、火事でパンツ1枚も、何も残りませんでした。
しかし、お試しに行くために「ルーガス」は車の中に置いていたのです。
「ルーガス」ひとつだけが無事でした。
アミンがある、やれる、まだ頑張れる。
会長の教え、「◯◯だから頑張る!!」
しかし、火事から半年後、今度は事故で主人が亡くなりました。
不運や不幸が次々と続くとも、落ち込んで、泣いてばかりいられません。
私が早く早く立ち上がらなければ…
私にはまだ、介助と介護の必要な子ども達がいる。子ども達は両親、親戚、友達、近所の人たち、本当に皆さんに助けていただきました。
1年後、子ども達がいても仕事ができるようにバリアフリーの家とサロンを立ち上げました。
親子3人、明るい障害者家族で頑張ってやってきました。
そして、覚悟はしていましたが、長男を10年前の38歳(当時私は65歳)の時、次男を8年前の39歳(私67歳)の時に、見送りました。
親よりも子どもを先に見送るなんて、それはそれは辛くて悲しいことですが、病気のことが分かってからは、子ども達には何の制限も制約もしない、もちろん一切の強制もしない、思った通りにしたいことをさせたい、として私は生きて、子ども達も太く短い人生だったと思います。
だけど、私は子どもの為にしてあげていると思って育てていましたが、それは逆で、全て私が息子達から育てられていました。
今は、家族は私一人になりましたが、私にはもう一つの家族があります。それがアミンです。
アミン大好き、皆大好き、人生色々です。本当に色々ありました。
私は修行するために生まれてきたのかな?
苦しいこと、泣きたいことがあっても、修行、修行と思い、人の何倍も健康な体を親からもらい、
父から受け継いだ気の強さ、父に可愛がられ、小さい時から経済的や物質的な苦労もしたことがなく、我儘いっぱいに育てられました。
人生、悪いこともあれば同じ分だけ良いこともある。
そして、今私が生かされているのは、
会長の言葉です。
会長の教えです。
会長の日めくりです。
岡田統括が断っても断っても私をアミンに誘い続けてくれたこと、しつこい、面倒くさいと思っていた私ですが、今は全てのことに感謝しています。
人生100年時代、この年になれば怖いものはない。
何があろうと笑い飛ばして「◯◯だから頑張る!」だけです。
会長の教え「人生、勝負は後半にあり」
これからも、死ぬまで元気で笑顔で楽しんでいきます。
ありがとうございました。